飯塚市議会議員「えぐち徹」のつれづれ日記

飯塚市議会議員えぐち徹の足跡です。

東北へ。第一日 〜松島・東松島・石巻・女川〜

今日は、一年ぶりの東北へ。毎年、東京の国立競技場の隣、日本製年間で行っている清渓セミナーの実行委員会の仲間と被災地の現場を巡り、声を聴かせて頂きました。

今日の日程は次の通り。
仙台駅→13:20仙台東IC→13:30松島海岸IC→13:40松島市→13:50東松島市→14:20石巻市→15:00〜15:30女川町→17:00宮城県青年会館着
17:15 実行委員会(会場:青年研修室)11名+福岡先生(+学生)

飯塚を7時前に出て、雨の中、福岡空港へ。仙台便は、ANAとJDLのコードシェア便ボンバルディア。仙台までは雨は追っかけて来れず、曇りの過ごしやすい天気です。

仙台駅でラーメン食べて、実行委員会の仲間と合流。その後、宮城県青年会館のバスで現場巡りです。


東松島市 野蒜駅付近

この映像は、東松島市野蒜駅付近。ここは、震災当日まさにその時間の2時46分発の上下2本の電車があり、運命が分かれたと多く報道された所です。

『運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」』 産経新聞

 東日本大震災が発生した3月11日午後2時46分、宮城県東松島市のJR仙石(せんせき)線「野蒜(のびる)駅」を出発した上下2本の電車があった。ともに一時行方不明と報じられたが、下り電車は丘の上で停止、地元住民のアドバイスに従って乗客は車内にとどまり無事だった。上り電車はJR東日本の内規に従って誘導された指定避難所が津波に襲われ、数人が命を落とした。乗客の証言などをもとに、小さな駅で交差した生と死を追った。(梶原紀尚)

ここの状況は、「野蒜駅」などで検索すると多く出てきますが、ひとつだけリンクを張っておきます。
http://blog.goo.ne.jp/jp280/e/05322a8e29505be5d83d23cd66d6ccfc

見てわかるように、駅も隣の商店もそのままです。最近テレビや新聞等で震災の記事を見ることが少なくなりましたが、現場ではこのような状況がごろごろあります。



石巻市
その後、石巻では、昨年がれきの受入を検討した際に視察させて頂いた処理場や漁港へ。処理場は車窓からの様子だが、がれきの山は確実に大幅減少しており、その処理の進み具合は、他の地区にあったがれきの山がなくなっていたりすることからも見て取れました。
石巻がれき処理処理場を受託している鹿島JVの中心企業鹿島のHP
http://www.kajima.co.jp/news/digest/mar_2012/feature/fukkou/index-j.html



女川町
最後の訪問地、女川町では、元役場職員で現在女川町議会議員の平塚勝志さんに説明して頂きました。




女川町はチーム飯塚で訪問した南三陸に雰囲気が似ています。そして南三陸同様、まちの中心部が根こそぎやられています。お話を聞かせて頂いたのは、現在町役場のあるちょっと高台になっている病院です。しかし、その病院さえも津波に襲われ、1階の床より1.95mも浸水しています。

ここ女川町では、死者569名、住家被害数4,411棟もの被害が出ており、現在行政・議会一丸になって復興へ向けての詰めの作業中で、中心地のかさ上げ・防潮堤の建設・復興住宅の建設など山のような作業があります。

予算を見てもその仕事量の多さは明白。60億から70億だった町の予算が、昨年度は700億円を上回っており、およそ10倍に昇っています。

しかし、職住一体だった漁業の町ですが、これからは職場は海のそばだけど、住むのは丘の上の復興住宅となります。しかし、その暮らしが本当に女川の方々が望むものなのか。防潮堤のあり方も含め、被災地各地で言われることですが、悩みはつきない様子です。その証拠と言うことではないでしょうが、被災前は11000人あまりだった人口が今では半数の5500人ほどしかおられないと言うことだそうです。復興の難しさを痛感します。



実行委員会にて

そして、仙台へ戻り、アドバイザーを務めて下さっている福岡政行さんとそのゼミ生も一緒に宮城県青年会館で実行委員会の会議。その後の交流会には、昨年の清渓セミナーに講師としてきて下さった大崎市の伊藤市長(写真左)もおいでいただき、色んな意見交換をさせて頂きました。(写真の右は、愛知県日進市議会議員の白井えり子さん)